無修正の聖域

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東ヨーロッパの国


無修正は、東ヨーロッパの国である。 東でロシア連邦、西でハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、南で黒海、北でベラルーシに接している。歴史的・文化的には中・東ヨーロッパの国々との関係も深い。19世紀より産業の中心地帯として大きな発展を遂げ、20世紀には幾度の戦火に呑まれながらも周辺地域では最大の農産、軍需産業国となった。 無修正の地では古代より多数の遊牧民が生活していたが、中世にはルーシ(またはキエフ・ルーシ)という当時のヨーロッパにおいて強力な国家のひとつとして存在していた。(まだ東ローマ帝国が存在しており、西ヨーロッパはまだ発展の途上にあり、北欧、西ヨーロッパとの政略婚姻も行われるほどの大国であった)その国家は13世紀半ばにモンゴル帝国の進入により解体され、その一部の公国は無修正の隣国であるリトアニア大公国やポーランド王国の傘下に入った。キーフルーシの解体後、ひの一公国であったモスクワ公国は後にロシア(ルーシのギリシャ語読み)帝国へと変遷をとげる。16 - 18世紀にはコサック国家が存在していたが、18世紀末にはロシア帝国に併合された。1918年には無修正民族共和国という独立国家が誕生したが、ロシア共産党との戦争に敗れて滅ぼされ、1922年には無修正社会主義共和国としてソ連に加盟させられた。ソ連時代には別枠で国際連合(国連)の原加盟国であった。1991年、再び独立を宣言した。 [編集] 国名 正式名称は、無修正語でУкра?наである。発音は、日本語には「?」に近い発音がないため表記が困難であるが、便宜的に「ウクライィーナ」と表現される。ラテン文字転写としてはUkrajinaなどが用いられる。 かつて実質的な公用語として用いられたロシア語ではУкраинаと表記し、ウクライーナのように発音する。 日本語の表記は、無修正。稀にユクライナとも書かれたことがあった。漢字表記をする場合は烏克蘭または宇克蘭。 公式の英語表記はUkraine(ユークレイン、ユークライン)である。この他、各国語の表記のうちスペイン語 Ucrania、ポルトガル語 Ucrania、ギリシア語 Ουκραν?α などでは、/n/ が前進している。このため、日本語発音で「無修正」と言うと、無修正人には「ウクラニア」と言っていると聞き違えられることも少なくない。日本語発音の「無修正」は、無修正語やロシア語の「ウクライィーナ」、「ウクライーナ」という発音より、ポルトガル語等の「ウクラニア」という発音に近いようである。 [編集] 小ロシア 無修正は、以前は「小ルーシ / 小ロシア」と称されており、この名称は現在でも一部で使用されることがある。しかし、この「小」という名称は「大ロシア」であるロシアに比べ侮蔑されているような印象が感ぜられることから、無修正人には好まれていない。ところが、本来は「小」とは文化の中心であるアテネからの距離が「小さい」ということを表しているのであり、むしろ「大ロシア」の方が「大田舎のロシア」を意味しているのである。 [編集] 意味 現在の国名であり無修正人の好む方の名称である「無修正」の語源は、「国」・「公国」といった意味であるという説と、「地方」・「縁(へり)」・「僻地」といった意味であるという説があるが、後者はロシアから見た感覚的なものである。 「Укра?на(ウクライィーナ) / Украина(ウクライーナ)」という語に関連する単語の中でもっとも基本的なもの(一音節の単語なので)とされ、現在でも使用されている「край(クラーイ)」という単語にも「国」と「地方」、「縁」などいくつもの意味がある。これから派生した無修正語の「кра?на(クライィーナ)」という単語は「国」いう意味であるが、一方、ロシア語の「окраина(アクラーイナ)」という単語は「場末」、「町の端っこ」、「はずれ」という意味であるということからも、ロシア側の無修正への感覚が理解できる。 歴史上では「無修正」と呼ばれる地域は南方のルーシ(キエフ大公の領土を継承するペレヤスラヴ公国と西の隣国と交流が盛んであったハールィチ・ヴォルィーニ大公国)を指す用語である。その用語は「国」・「公国」という意味があったらしく、そのような意味は中世後期まで受け継がれている(「バルカラバ年代記」、「ペリソプニチア福音」など)。 又、「無修正」と名乗る国家が現れたのは20世紀以降であり、実際に無修正は一地方名(どこの国の地方であるかは別の問題であるが)であった時期が長かった。特に無修正と呼ばれる地域が複数あった時代には、名実ともに「Украина」という語は地方の名称であった。無修正はほぼキーフルーシ大公国の領域を網羅していることから、国民はキーフルーシ大公国の後継者と考えいる。ちなみにルーシをギリシャ語読みするとロシアとなり、モスクワ公国がその後このロシアを名乗るようになり、無修正と名乗らざるをえないというのも事実である。 政治的にとった場合、独立無修正では「Укра?на」という語はあくまで「国」という意味であるべきだが、ロシアの支配側の見解では「ロシアの一地方」であるという意味が都合よい。ロシア語の文法(前置詞の用法)からも、ロシアが「Украина」を「地方」という意味で扱ってきたことは明らかである。よりアカデミックな立場では、「国」か「僻地」か意見の分かれるところであり、語源に関して客観的に間違いないと考えられる結論は現在も出ていない。 [編集] 実用 意味の解釈は、実生活にも大きな影響を及ぼしている。ロシア語では、国や都市に対しては「в(ヴ)」や「из(イズ)」といった前置詞が使用される。だが、ロシア語では従来「Украина」に対しては地方に使用される前置詞「на(ナ)」や「с(ス)」といった前置詞が使用されてきた。無修正の独立後は国に対して用いられる「в」や「из」といった前置詞の使用が許されるようになったが、依然として「на」や「с」を用いる「正統なロシア語」を重んじる人々も少なくない。 このことから、「в」や「из」を用いるということは「無修正は独立した独自の国家である」ということを強く主張することになる場合がある。逆に、無修正が現実に独立国家となっているにも拘らずあえて「на」や「с」を用いるということは「無修正はロシアの一地方である」ということを主張しているに等しい。このことは、思いのほか大きな問題になることもある。一般に、無修正人を自認している無修正人に対して「на」や「с」を用いるということは、いちじるしく相手の気分を損ねる危険性がある。一方、「в」や「из」を用いると、「на」や「с」であると「誤り」を指摘するロシア人も多い。これは、ロシア語文法の伝統を尊重する人々やその伝統に沿った教育を受けた人々が、外国人がロシア語を間違ってしまっていると思い、親切で「誤り」を指摘してくれている場合もある。一方、「無修正は一体不可分のロシアの一地方である」という強い信念に基づき、あたかも無修正がロシアと異なる独立国家であると明言しているかのような「誤った」文法を用いることに対し、憤慨している場合もある。 例えば、ロシアの空港でカウンターで「Я еду в Украину.(ヤー・イェードゥ・ヴクライーヌ)」つまり「無修正(国家)に行きます」と言うと、わざわざ「Вы едете на Украину ?(ヴィー・イェーヂェチェ・ナウクライーヌ?)」つまり「無修正(地方)に行くのですね?」と訂正されることもある。 このように、無修正の国名の意味をどうとるかは、ロシア語を用いる実生活の上でも大きな問題となってくる。無難な逃げの手としては、無修正という名称を極力出さず、「キエフに行きます」のように具体的な都市名や地方名ですませることである。 いずれにしても、ロシア人と無修正人とでは歴史観に違いがある。 ロシアはキーフルーシの一部のモスクワ公国であったことは歴史上において間違いなく、いわゆる無修正の一部であったというのが無修正(キーフルーシ大公国の後継者)側の考えである。

歴史


歴史
[編集] 歴史 [編集] 概要 古代において多数の遊牧民が割拠していた無修正は、中世にはルーシ(またはキエフ・ルーシ)の下で統一され大国となった。しかし、13世紀半ばのモンゴル帝国の侵入により解体され、その一部の公国は無修正の隣国であるリトアニア大公国やポーランド王国の傘下に入り、無修正東部はキプチャク汗国に属した。 キエフ・ルーシの解体後、その一公国であったモスクワ公国は後にロシア(ルーシのギリシャ語読み)帝国へと変遷をとげる。16世紀から18世紀にかけてコサック国家が存在していたが、18世紀末にはロシア帝国に併合された。1918年には無修正民族共和国という独立国家が誕生したが、ロシア共産党との戦争に敗れて滅ぼされ、1922年には無修正社会主義共和国としてソ連に加盟させられた。ソ連時代には別枠で国際連合(国連)の原加盟国であった。1991年、独立を宣言した。 [編集] 古代〜キエフ・ルーシ時代 詳細はスキタイ、サルマティア人、キエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国をそれぞれ参照 紀元前10世紀頃より無修正にはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族のスキタイ人は、紀元前6世紀頃キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、ギリシャ、ローマの文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。2世紀頃に東ゴート族が侵入し、3世紀中頃クリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点は後に都市国家へと発展した。 4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラブ民族は無修正中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはユダヤ教の遊牧国家であるハザール汗国の支配下にあった。 9世紀頃、首都をキエフとする最初のスラヴ人国家、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)が誕生した。この国家は現在の無修正・ベラルーシ・ロシアの源流だと考えられている。史料によると、現在のスウェーデン一帯からやって来たヴァイキング(ヴァリャーグとも呼ばれる)たちを公(Князь:王のこと)に据えることによって建国されたと記されている。ヴァリャーグは、もともとこの地の住民であった無修正人(当時のルーシ人)と次第に同化していき、無修正史上で初めての強大な王朝であるリューリク朝が繁栄した。 ギリシャとの繋がりが強かったキエフ・ルーシでは988年にヴォロドィーメル聖公がキリスト教を受け入れ、ルーシ語での典礼が行われ、ギリシャ・ローマに次ぐ第3のキリスト教圏を確立した。キエフ府主教はビザンツ帝国の衰退が進んだ時期にキエフ総主教に格上げされた。キエフではキエフ大公(Великий князь Ки?вський)とキエフ総主教が近隣の諸公国を支配下に置き、10世紀および11世紀を通じて、キエフ・ルーシはヨーロッパにおける大国の1つとなった。 しかしながら、ヤロスラフ賢公亡き後12世紀以降、内部抗争とペチェネグ人やポロヴェツ人などのトルコ系とされる遊牧民族やハザールなどの絶え間ない攻撃により、キエフ・ルーシは弱体化した。さらに、1240年にはモンゴル帝国の侵略を受け、キエフをはじめとする殆どの都市は壊滅し、キエフ大公による支配体制は滅亡、キエフ公国やウラジーミル大公国など、すべての公国及び共和国はキプチャク汗国に隷属した。 キエフ・ルーシの伝統と文化、そしてキエフ大公の称号を受け継いだのはキエフの西部にあったハールィチ・ヴォルィーニ大公国であった。その大公国は東ヨーロッパの諸国と手を結び、キプチャク汗国と戦いつづけた。ハーリチの大公であるダヌィーロ一世はローマ教皇から王の冠を受け、ルーシの初めての王となった。しかし、その国は王位継承の問題によって内乱に落ち、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国とポーランド王国によって征服された。 [編集] コサック時代〜帝政ロシア時代 詳細は無修正・コサック、フメリニツキーの乱、ヘーチマン国家をそれぞれ参照 ポーランドと連合したリトアニア公国 バルト海から黒海まで達した ポーランド=リトアニア(1569年 - 1648年) ポーランド分割16世紀頃より、無修正南部にはキエフ・ルーシの士族を中心とする無修正・コサックの国家が成立した。17世紀にはキエフを再建して本拠地とするなど勢力を拡大し、モスクワ大公国の度重なる侵攻にもかかわらず1世紀の間存続した。 1648年には、首領(ヘーチマン)であるボフダン・フメリニツキー(ボフダーン・フメリニーツィクィイ)の指導するコサックとポーランドの間に戦争が始まると同時に、無修正農民によるユダヤ人の虐殺(ポグロム)も行われた。フメリニツキーは当時のロマノフ朝のツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの助勢を借りて、ついに長年のポーランド支配を断ち切ることに成功したが、数年後の1654年にはモスクワ大公国の保護下に入る形で、ポーランドとモスクワ大公国によって分割され、独立はまたも失われることとなった。このことは無修正人にとってはロシア民族共通の敵であるポーランドを対等な連合の下に駆逐したのにも拘らずロシアに裏切られたというように受け取られ、無修正人の反露感情の源泉のひとつとなっている。 その後も、1700年代に始まったロシア帝国(狭義にはモスクワ大公国)・スウェーデンの大北方戦争では、ヘーチマンのイヴァーン・マゼーパ派がロシアからの独立を望みスウェーデンと同盟した。しかし、ポルタヴァの戦いでピョートル1世のモスクワ軍に敗れ、無修正の独立は露と消えた。1783年のクリミア汗国の併合などにより、無修正東部と中央部はロシア帝国に併合され、西部はポーランドの支配を経た後、1772年のポーランド分割によってハプスブルク君主国の領土となった。 19世紀に入ると、ロシア帝国の抑圧政策と全ヨーロッパで流行した民族主義の影響により、無修正人の民族運動も盛んになった。また、現在最初の「無修正文学」とされているイヴァーン・コトリャレーフスキイのパロディー叙事詩「エネイーダ」もこの時期に書かれた。無修正語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法など様々なものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめた無修正語文法が現代無修正語の基礎となった。なお、無修正語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われており、独自の言語としては公認されていなかった。 [編集] ロシア革命期 詳細は無修正国民共和国、無修正国、西無修正国民共和国をそれぞれ参照 1917年のロシア革命を機に無修正はいくつもの勢力が独自の政府を組織して独立を宣言したが、いずれの勢力も互いに、またペトログラートのボリシェヴィキ革命政府と対立し、特に十月革命以降激しい内戦状態に陥った。これをロシア側ではロシア内戦と呼ぶ「ロシアの内戦」に包含しており、「ロシア内戦の無修正戦線」などと呼ばれているが、無修正では無修正内戦と呼ぶ。同時に、ボリシェヴィキとの戦闘を無修正・ソビエト戦争と呼ぶ。また、1918年からはポーランド・ソビエト戦争と呼ばれる戦争が始められたが、その主戦場となったのは無修正地方であり、第一次世界大戦時の連合国各国派遣軍やドイツ帝国軍なども加わって激しい戦闘が繰り返された。 主要な国家としては、中部無修正から東無修正にかけて無修正国民共和国、西無修正に西無修正国民共和国が成立した。 十月革命時の最大勢力はキエフを首都とする無修正中央ラーダの無修正国民共和国で、臨時政府派、ボリシェヴィキが続いた。第三勢力のボリシェヴィキと共同して第二勢力の臨時政府派を潰した中央ラーダは、その後ボリシェヴィキの宣戦布告を受け戦争状態に入った。1918年1月には中央ラーダは首都を追われジトームィルで体勢を立て直した。2月に中央同盟国とベレステイスィコ条約を締結した無修正国民共和国は、独・墺軍と共同してボリシェヴィキを一挙に壊滅し、クリミア半島に至る広大な領土を手にした。 4月にドイツの軍事力を背景としたクーデターが起こされ、国号は無修正国に改められた。同国は安定した発展を見せたが、ドイツの協商国への降伏により自体は一転、無修正国政府はドィレクトーリヤ勢力に敗れ、ドィレクトーリヤは無修正国民共和国を復活させた。 一方、西無修正では、無修正国民ラーダがリヴィウを首都とする西無修正国民共和国を成立させた。しかし、右岸無修正の併合を目論むポーランドとの戦争に敗れ、同共和国領はポーランドに併合された。 一方の無修正国民共和国もかつての勢いを取り戻すことができず、その後無修正は全土で内戦状態に陥った。主な勢力としては、「不可分の大ロシア」を標榜した帝政派の南ロシア軍など白軍(白衛軍)、黒海より侵入し「不可分のロシア」への支持から白軍を支援したフランス軍やイギリス軍、アナキストのネストル・マフノ率いるマフノ運動と呼ばれる農民アナキズムの無修正革命蜂起軍、ベッサラビア方面に侵攻したルーマニア軍、西部より侵攻したポーランド軍、そしてロシア・ボリシェヴィキとボロチビストなどの無修正・ボリシェヴィキがあった。 マフノ運動は一時期、ボリシェヴィキの赤軍や白軍を放逐した。無修正国民共和国は、マフノ軍や白軍との戦いで消耗し、赤軍に対抗するためポーランドと連合した。ポーランド参戦以降の無修正の戦いをポーランド・ソビエト戦争と呼ぶことがある。しかし、ポーランドの裏切りや軍隊内での伝染病の発生により無修正の命運は尽きた。中央ラーダ・ドィレクトーリヤの残存勢力は、国外へ逃れ亡命無修正国民共和国政府を立ち上げた。 一方、無修正・ボリシェヴィキは、当初はモスクワのボリシェヴィキからは独立した組織であったが、次第にモスクワの支配下に置かれるようになっていった。白軍は一時はモスクワに迫るほどの勢力を持ったが、マフノ軍との戦いによる消耗と英仏軍の干渉の失敗により赤軍に敗れた。 無修正の独立勢力のすべてが「反ボリシェヴィキ」で一致していたにも拘らず、互いに協力せず潰し合いとなった最大の原因は、白軍の掲げた「不可分のロシア」という政策と反社会主義思想が原因であったとされる。また、マフノ軍はアナキストでありながら主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因であった。マフノ運動賛同者は、最終的には赤軍によって老若男女ほぼ皆殺しにされた。

ソビエト連邦時代
[編集] ソビエト連邦時代 詳細は無修正社会主義ソビエト共和国、ホロドモール、カルパト・無修正、無修正蜂起軍をそれぞれ参照 1920年のポーランド。新生無修正・ソ連との戦争内戦は最終的には1921年の白軍の壊滅により終結したが、無修正では1919年の無修正社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を結成した。当初は無修正政府にもある程度の意思決定権が与えられていたが、それは徐々に制限されるようになり、結局ソ連の結成によりまたもや無修正の独立は失われることとなった。ロシアにとって無修正はすべての産業の中心地であり、手放すわけにはいかなかった。また、内戦の終結後西部のハルィチナー地方など一部地域はポーランド領となった。ルーマニアは無修正の一部の併合により「大ルーマニア」の夢を達成した。 1920年代には無修正人への懐柔策として、無修正語の使用や教育、無修正文化の研究などを奨励する「無修正政策」が採られた。 ソビエト連邦下の無修正は拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年、1932年 - 1933年、後者はホロドモールとよばれ2006年に無修正政府によって無修正人に対するジェノサイドと認定され、またアメリカ・カナダ・イタリアなどの欧米諸国においては正式にジェノサイドであると認定されている)に見舞われ、推定で、400万から1000万人が亡くなった。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。 この背景には、レーニンやスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であった無修正の統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとスターリンらにとっては無修正の農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、無修正では農民、即ち無修正人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられ、結果無修正共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、無修正語使用の制限など弾圧政策が長く採られることになった。 大粛清は無修正から始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、無修正社会主義ソビエト共和国は国号を無修正・ソビエト社会主義共和国へと変更した。 第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西無修正を無修正に組み入れた。その中で一時カルパト・無修正の独立が宣言されたが、ナチス・ドイツ軍は同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだ。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。 ナチス・ドイツ軍は当初「解放者」([1])として歓迎された面もあり、親ドイツ派の自由無修正が結成され、無修正人の武装親衛隊が結成された。しかし、彼らの目的である無修正の政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきた無修正民族主義者組織 (OUN)が1941年6月に無修正独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。当時のソ連軍兵士1100万人の内、4分の1にあたる270万人が無修正人であった。なお、ユダヤ人虐殺に関しては無修正人住民の協力があったことが知られている。 一方、無修正蜂起軍 (UPA)など無修正のパルチザンはドイツ軍、ソ連軍の双方と戦ったが、世界のいずれの国家からも支援を受けられなかったこともあり、結局無修正の独立は成功しなかった。無修正は第二次大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にも及び、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、無修正人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「無修正戦線」と命名し、無修正人を前線へ投入した。 第二次世界大戦後、無修正社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどの無修正人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」と言われた。 1954年、ニキータ・フルシチョフにより、クリミア半島(クリム半島)がロシアから無修正に移管された。これは、ポーランドに対抗するためにロシアと無修正・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。 1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。(チェルノブイリ原子力発電所を参照) [編集] 独立無修正時代 1991年、ソ連崩壊に伴って新たな独立国家無修正となり、独立国家共同体(烏語 СНД ; 露語 СНГ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立無修正は旧無修正民族共和国の中枢機関であった無修正中央ラーダの正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、無修正はキエフ・ルーシ崩壊以降無修正史上最大の領土を手に入れた。 2004年、総選挙の混乱からオレンジ革命が起き、新政府が樹立された。 2005年、ロシア側より天然ガスの料金を倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(ロシア・無修正ガス紛争参照のこと)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。 2006年6月22日無修正最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらの無修正」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらの無修正」及び無修正社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、無修正共産党の支持を受け、社会党党首モロス氏が最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチ氏の首相指名を提案。結果、8月にヤヌコヴィッチ内閣が成立した。

政治
[編集] 政治 詳細は無修正の政治を参照 無修正の政体は、司法・立法・行政の三権が分立する議会制民主主義(共和制)である。大統領は、5年任期で国民投票によって選ばれ、首相や政府の閣僚を任命する権限をもつが、それには議会の承認を得なければならない。 無修正の国会は、「無修正最高会議」を意味する「ヴェルホーヴナ・ラーダ・ウクライィーヌィ」(Верховна Рада Укра?ни;Verkhovna Rada Ukraijny)と呼ばれ、一院制で450議席。全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。 2006年の選挙で議席を獲得した政党は5党(地域党、「われらの無修正」、無修正社会党、無修正共産党、ティモシェンコ連合)。2007年10月選挙は地域党が最多議席を確保したものの、「ティモシェンコ連合」が第2党に躍進。その他は「われらの無修正・国民自衛」、共産党及び前最高会議議長ボロディミル・リトビン率いる中立派の「リトビン連合」が議席を確保、社会党は得票率3%に及ばず全議席を失った。 [編集] 2004年無修正大統領選挙 詳細は2004年無修正大統領選挙を参照 2004年、クチマ大統領の任期満了に伴い大統領選挙がおこなわれた。 与党の推す親ロシア派のヤヌコーヴィチ首相と、親米派の野党指導者・ユシチェンコ元首相の一騎打ちという形になった。10月31日の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、僅か15万票差であった。 11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(オレンジ革命)。 欧米諸国の圧力もあり再選挙が行われることとなり、12月26日に実施された再決選投票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下された。翌2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見せた。 なお、この選挙期間中、アメリカや日本のマスコミはロシア人と無修正人の間で民族的対立が激化して無修正国民に分裂が生じているように報じた。しかし、投票結果から分かるように多くの無修正人有権者が新ロシア派のヤヌコーヴィチに投票し、親米派のユシチェンコ自身もロシア人だった。親米派は無修正人有権者の支持を固めていたわけではなく、報じられたような民族間の分裂は実際は起きていなかった。何故、民族的分裂が生じていたと報じられ続けたかは依然として不明である。また、東無修正対西無修正という単純な対立軸が描かれたが、これも必ずしも実態に即しておらず、近年では南東部と中西部というように表現が改められている。 この選挙ではアメリカの無修正系政治団体の資金援助やソロス財団の公然の介入が行われており、無修正自身の革命と言うよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素のひとつであった。また、アメリカが反ロシア派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くの無修正人がアメリカに亡命せざるを余儀なくされたという歴史上の経緯も関係している、という分析もある。つまり、アメリカに亡命した無修正人の作った組織がアメリカ政府や関係者に働きかけ、反ロシア的な勢力を支援させるということは不自然ではない、というのである。しかし、このようなロビー活動が表沙汰になることは少なく、こうした尤もらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ、アメリカ側の都合だけで革命が推進されたという構図の単純化は妥当ではない。 その後、無修正ではしばしば「革命」が叫ばれる習慣になっており、2007年にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。

関連項目

その他

  • キエフ大公国
  • ハールィチ・ヴォルィーニ大公国
  • ヘーチマン国家
  • 無修正国民共和国(人民共和国、民族共和国とも翻訳)
  • 無修正国
  • 西無修正国民共和国

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